奪われるその8

ゆうくん
2005年01月03日
3,273
すでに陽が地平線下に沈んで三十分以上経っていた。先ほどまで鮮やかに空を染めていた夕焼けも、もはや宵闇に取って代わられ、地上には急激に夜のとばりが降りつつあった。
安西は美奈子の家まであと数百メートルの市道にいた。
この市道は前述したように車一台が通行するのがやっとの広さしかない。路肩には人の背丈ほどもある雑草が生い茂り、カーブが多いので、先の見通しはきわめて悪かった。そのため日頃からほとんど交通量がなく、ことに日が落ちてからは、ここを通過する車は皆無に近い。――美奈子を除いては。
安西はジーンズに迷彩色のTシャツを着て、頭には大リーグの野球帽をかぶっている。大きなアルミ製の四角いカメラケースを肩から提げ、マウンテンバイクに跨っていた。
日頃のよれよれのワイシャツやスーツの姿とはかけ離れている。調査事務所の調査員というよりは、アウトドア派のカメラマンのような格好である。
腕時計を見る。七時半。そろそろ美奈子がパートから戻ってくる頃だ。
じりじりするような想いで、安西は美奈子の軽自動車がここへさしかかるのを待つ。エンジン音が近づいてこないかと耳を澄ましてみる。それらしい音はまだ聞こえてこない。彼の鼓膜をかすかに震わせるのは、近くを流れる小川のせせらぎと、日が落ちてもまだわめき続けるトボケた蝉と、雑草の下で鳴く気の早い秋の虫だけだった。
――早く来いよ。
安西は頭の中でそうつぶやく。
――待つ身はつらい‥‥。
安西が美奈子の裸身を“盗撮”してから、すでに十日が経過していた。
義母の敏恵から依頼された美奈子の素行調査は三日前に終了している。結果は当然のことながら「浮気の事実なし」であった。敏恵はこの結果に不満たらたらだったが、前回同様、詳細な報告書の前に沈黙せざるを得なかった。
美奈子の尾行も家の監視も解かれた。それは安西が待ちかねていたものであった。
美奈子の肉体を自分のものにする。そのための計画は、例の日から毎日彼の脳内で組み上げられ、修正され、破棄された。さまざまなシチュエーションが浮かんでは消えた。
単純に暴力で犯しても面白くない。また警察などに通報されたり告訴されたりする危険性もある。夫に忠実であろう美奈子の抵抗をいかに奪うか、通報や告訴をいかに断念させるか。そして美奈子の若々しい身体をいかに味わうか、いかに楽しむか。
それらの思念が頭の中を錯綜する。三日後には計画のアウトラインがぼんやりと姿を現し、五日目にはほぼその細部まで形成された。
が、仲間の調査員たちの監視下にあっては、どんな計画を立てようと実行に移すことはできない。
しかし今やその監視網もなくなった。安西の計画の妨げになるものはなにも存在しなかった。待ちに待った日が訪れたのだ。

ちょうどその頃、美奈子は郊外のスーパーで買い物を済ませ、自宅に向かって車を走らせていた。
最近ようやく仕事にも慣れ、パートの同僚にもうち解け始め、いろいろな意味で楽しくなってきたところだ。美奈子は上機嫌でハンドルを操る。
カーコンポから流れるポップスの軽快なサウンドに耳を傾けながら、そのメロディにあわせてハミングをする。
楽しそうだった。――自分の帰路にドス黒い欲望をみなぎらせた男が待ち受けているとも知らずに。

安西は再び腕時計に視線を向けた。随分長い時間が流れたような気がしたが、先ほど文字盤に目をやってから、まだ十分しか経っていない。
乾いた唇を舌先で舐め、鼓動が高鳴る胸の中から息を長く吐き出す。手のひらが汗で湿っている。暑さのせいではなく、緊張のためだということは、安西にもよくわかっていた。
――いつもなら、もうそろそろ姿を現すんだがなあ。何をしてるんだ。
苛立つ安西の耳に、その時、かすかに車のエンジン音が聞こえてきたような気がした。はっとなって耳を澄ます。
‥‥グルルルルルル‥‥。
美奈子の軽自動車だ。間違いない。半月に渡って監視を続けた安西には、すでに音を聞いただけで美奈子の車か否かの区別がつくようになっている。
「‥‥いよいよきたか」
安西はマウンテンバイクを美奈子の自宅のある方向へ向け、背後を振り返る。
すぐ後方には大きく湾曲した見通しの悪いカーブがある。もう間もなく美奈子の車がこのカーブを曲がって姿を見せるはずだ。
しかし、なかなかその時は訪れなかった。市道に入ってからは、美奈子はいつも徐行に近い速度まで落とす。そのためだ。
安西は努めて苛々を押さえ込もうとする。美奈子がスピードを落としてこの道を進んでくるのを前提に立てた計画なのだ。むしろ速い速度で走ってこられると困るのだ。
とはいうものの美奈子の車がすぐ近くまでやってくるまでは、じりじりとした焦燥感に焼かれるような思いだった。
やがて――はっとなった。エンジン音が大きくなってきたと感じた直後、後方のカーブがぱっと明るくなったのだ。美奈子の車のライトに違いない。
「よーし、やるぞ!」
安西はタイミングを計る。美奈子の車がカーブを曲がって姿を見せるその直前、足をかけたペダルにぐっと力を込める。
マウンテンバイクが市道の真ん中を走り出したのと、車がカーブを曲がりきったのがほぼ同時だった。
仰天したのは美奈子だったろう。無人の道路のつもりでいたのに、先の見えないカーブを曲がったら目の前に自転車が走っていたのだから。
とっさに急ブレーキを踏む。タイヤが摩擦で悲鳴を上げる。
もともと徐行に近い速度で走っていたのだから、わずかな距離で静止できるはずだった。が、自転車までの距離はあまりに短かった。
ゴンッ!
美奈子の車のバンパーが自転車の後輪を小突く。
ガシャーン!
派手な音を立てて自転車が転倒した。
車が停車する寸前にぶつかったので、車体が自転車に乗り上げるということはない。
そもそも安西がうまくマウンテンバイクを操れば、転倒する必要さえなかったほどの微々たる接触だった。派手な音をたてて自転車が倒れたのは、安西がわざとそう演出したからに他ならない。
倒れるときの動作は、すべて計算づくだった。
わざと大げさに転ぶ。その際、車体の下敷きにならないように、道ばたへ身を躍らせる。倒れ込みながら肩から提げた銀色のカメラケースを放り投げ、アスファルトの上を転がす。アルミ製の四角いハードケースは大音響を立てながら、ゴロンゴロンと路上を弾んだ。
はたで見ていたらそれなりの事故と思うに違いない。
アスファルトの上に腹這いで伏せながら、安西は己の描いた筋書き通りに事が進行しつつあることに満足の笑みを浮かべた。
――これで美奈子を堕とすことができる‥‥。