奪われるその2
ゆうくん
2005年01月01日
4,376
彼はもう何時間も前から雑木林の中で隠れ潜んでいた。
手足のやけに長い巨大な藪蚊が、風圧を感じるほどの大きな羽音をたてて、目の前を横切ってゆく。手の甲で追い払いながら改めて虫除けスプレーを全身に噴射する。
「虫だけは勘弁してくれよ‥‥。もうこりごりだ」
うんざりした声でつぶやく。
彼のことを同僚たちは陰で“キツネ”と呼んでいた。彼の容貌がその由来だった。細くて切れ長の目、削ぎ落としたように鋭角を描く頬のライン、とがった顎、情の薄そうな厚みのない唇とやや前に突き出た二枚の前歯。
正面から見るとそれはまさしくキツネそのものだ。
ただこの“キツネ”は全体的に貧相なイメージを見るものに与えた。年齢も四十を越え、加齢的な外観の変化が、隠しようもなく彼の上を覆い始めている。
数年前から前髪の生え際が次第に後退を始め、今では若い頃の二倍も広くなってしまった額。すっかりボリュームを失った頭髪の半分は既に白い。顔のあちこちには皺が深い溝となって刻まれている。
それに加え、数年前女房と離婚してからは身だしなみも悪くなる一方だ。スーツもワイシャツも、ほとんどクリーニングに出さないらしく、いつもよれよれで張りがない。靴には埃や泥がこびりついていて光沢を全く認めることが出来なかった
そんな彼を一部の同僚たちは“キツネ”に代わって“ネズミ”と呼ぶようになってきた。言われてみれば、いっそう貧相さが増してからの彼は、精悍な野生動物であるキツネよりも、あの卑しい齧歯類の方がより連想しやすくなっている。彼のあだ名が完全に“ネズミ”に移行するのも時間の問題であると言えた。
では、彼は同僚たちから嘲笑されているのかというと、決してそうではなかった。彼はむしろ尊敬されていた。仕事の上ではこの道二十年の大ベテランで、またベテランである以上に有能だった。
現場における判断の素早さと正確さは右に出るものがない。数名でチームを組むと常に司令塔は彼の役目だった。それ以外にも、もともとカメラが趣味であるため、それを扱わせるとプロの報道カメラマン並みのテクニックを披露することができる。同僚たちには到底真似のできることではなかった。
そういう意味で、仕事上ではむしろ非常に尊敬されているくらいなのだが、身なりにまったく神経を使わず、時には珍妙なスタイルで出社することもあるので、嘲笑めいたあだ名を付けられてしまう余地が生じてしまうのだった。
たとえ有能であっても、浮世離れした変人はとかくからかいの対象になってしまうのが世間というものだ。もっとも、多くの場合はそのあだ名の中に親しみが籠められており、彼に関しても例外ではなかったのである。だから同僚たちは、彼のことを親しみを籠めて“キツネ”“ネズミ”と呼ぶのだった。
彼は数日前から、昼間から夜にかけてこの雑木林に身を潜めていた。ビニールシートの上であぐらをかいている彼の周辺には、虫除けスプレーや蚊取り線香などが、おびただしい数の虫の死骸とともに散在し、この真夏の雑木林でいかに無数の虫どもと格闘してきたかがうかがえた。
彼の潜む雑木林の前には小川が流れ、静かなせせらぎを奏でている。その向こうには二階建ての住宅が一軒、こちらに背を向けて、低い生け垣に囲まれて佇んでいた。
彼の位置からは家の裏手しか見えないので玄関などは見えないが、広い庭があるため、表の門(門と言っても門柱が二本立っているだけのものだが)や駐車スペースなど敷地のかなりの部分が見渡せた。
この住宅のさらに先には小川に平行して狭い道路が走っているが、雑草に遮られて見えなかった。
雑木林から小川まで約三十メートル、小川から住宅まで二十メートルくらいの距離である。
周辺に他の住宅はない。完全に孤立した一軒家だった。かつては水田豊かな田園地帯だったのだろうが、減反政策のためか後継者不足が深刻なのか、見る影もなく荒れ果ててしまい、雑草が人の背丈よりも高く茂った荒れ地ばかりが広がっている。
座っている彼の前には、巨大なズームレンズを装着したニコンの一眼レフカメラが三脚に支えられてそびえている。彼がこの一軒家を監視しているのは、カメラのレンズがそれに向けられていることでもわかる。
ポケットの中の携帯電話が鳴った。ディスプレイを見る。同僚の鈴木だった。
「もしもし」
「あ、安西か。現在ターゲットを捕捉、追尾中。職場の菓子工場を出た後、スーパーで買い物をして、今は県道をそちらに向かってる。もうすぐ市道への分岐点。そちらまであと二、三分の距離だ」
「了解。市道には入らずに、どこかで停車して待機しててくれ。これ以上追跡すると交通量の少ない道路だから気取られるぞ。市道から先は一本道だから大丈夫だ。もしターゲットが自宅に入らないで素通りしたら知らせる。その場合は飛んできてくれ」
「わかった」
彼――安西は携帯電話をポケットにしまい、立ち上がって“ターゲット”のくるのを待ち受けた。
一匹の藪蚊が耳元をかすめ飛ぶ。しかめ面をしながら手で追い払った。
「虫だけは勘弁してくれよ」
とつぶやいた。
美奈子は県道を離れ、自宅の方向へ伸びる市道に入った。一応舗装されているのだがアスファルトの痛みが激しく、ところどころ車が大きくバウンドした。
車一台通るのがやっとの狭い道路で、しかもうねうねと曲がりくねっている。
それに加え、道の両脇には背の高い雑草がはびこっているので、先の見通しはきわめて悪い。
美奈子は車の速度を落して徐行なみにのろのろ進んだ。かまうことはない。ほとんど車の通らない道路なのだ。現にバックミラーを見ても、市道に入ってからは後方に他車の姿はない。
やがて雑草の切れ間から、道路に平行して流れる小川が見えてきた。美奈子はいつもこの小川を目にするとほっとする。自宅が近いのだ。
まもなく背後に小川を背負った、低い生け垣に囲まれた二階屋が見えてきた。
――美奈子と雄二の新居だ。
この家は貸家ではなく雄二の持ち家だ。
菱川家はこの地方では旧家としてだけでなく資産家としても知られる存在である。
しかし二十代前半にして既に一軒家の所有者になったのは、一族の中でも雄二だけである。しかも雄二がこの家を手に入れたのは、なんと高校生のときだった。
ここはもともと雄二の伯父の家であった。その伯父が亡くなった際、遺言状に相続人として雄二が指定されていたのである。――伯父は生涯独身で子どもがいなかった。
その間の事情について雄二は美奈子に語ったことがあった。
「僕はその伯父さんが大好きだったんだ。だから小さい頃はよく泊まりに行ったよ。お袋はいい顔しなかったけどね。伯父の家に行くと、小川で水遊びしたり雑木林で虫取りや木登りをしてたから、お袋は危険だと考えていたんだな」
「よくあのお母様が許したわね」
「伯父が説得してくれたんだよ。雄二をもやしっ子にするつもりか、子どもはもっと外で遊ばせないと駄目だ、ひ弱な子になってしまう、てね。伯父はお袋が頭の上がらない数少ない人間の一人だったし、伯父からそう言われると、本心は嫌でも、僕を送り出さざるを得なかったんだろうな」
「いい伯父さんだったのね」
「ああ、いい伯父さんだったよ。子どもの僕に付き合ってよく一緒に遊んでくれたしね。しかも優しいだけじゃなくて、僕が悪いことをすると本気で叱ってくれたよ、真剣にね。」
「雄二のことを自分の子どものように思ってたんじゃない?」
「多分ね。伯父は生涯独身だったからきっとそう思ってくれていたんだと思う。だから病気で亡くなる前に、僕にこの家を譲るって項目を遺言状に入れてくれたんだろうね」
伯父は菱川家の中でも財産家であったので、親族はみなそれなりに遺産の恩恵を受けた。その最大の享受者が雄二であったわけだ。
相続後、雄二は東京の大学へ進学したため、やむを得ず何年も空き家の状態が続いたのだが、美奈子との結婚が決まって新居を探す段になったとき、雄二がこの家に住みたいと言い出したのである。
美奈子は当初気が進まなかった。家自体がもう古いし、周辺に隣家がなく物騒である。しかし、亡き伯父との思い出の家に住みたいという雄二の気持ちをくみ取り、最終的には受け容れたのだった。
家賃を払う必要がないことも魅力の一つだった。
若い美奈子のために、雄二が多少の改装を施したこともあり、今では美奈子自身もこの住宅に満足していた。
のろのろ運転の美奈子の前に自宅の姿が次第に大きく見えてきた。
手足のやけに長い巨大な藪蚊が、風圧を感じるほどの大きな羽音をたてて、目の前を横切ってゆく。手の甲で追い払いながら改めて虫除けスプレーを全身に噴射する。
「虫だけは勘弁してくれよ‥‥。もうこりごりだ」
うんざりした声でつぶやく。
彼のことを同僚たちは陰で“キツネ”と呼んでいた。彼の容貌がその由来だった。細くて切れ長の目、削ぎ落としたように鋭角を描く頬のライン、とがった顎、情の薄そうな厚みのない唇とやや前に突き出た二枚の前歯。
正面から見るとそれはまさしくキツネそのものだ。
ただこの“キツネ”は全体的に貧相なイメージを見るものに与えた。年齢も四十を越え、加齢的な外観の変化が、隠しようもなく彼の上を覆い始めている。
数年前から前髪の生え際が次第に後退を始め、今では若い頃の二倍も広くなってしまった額。すっかりボリュームを失った頭髪の半分は既に白い。顔のあちこちには皺が深い溝となって刻まれている。
それに加え、数年前女房と離婚してからは身だしなみも悪くなる一方だ。スーツもワイシャツも、ほとんどクリーニングに出さないらしく、いつもよれよれで張りがない。靴には埃や泥がこびりついていて光沢を全く認めることが出来なかった
そんな彼を一部の同僚たちは“キツネ”に代わって“ネズミ”と呼ぶようになってきた。言われてみれば、いっそう貧相さが増してからの彼は、精悍な野生動物であるキツネよりも、あの卑しい齧歯類の方がより連想しやすくなっている。彼のあだ名が完全に“ネズミ”に移行するのも時間の問題であると言えた。
では、彼は同僚たちから嘲笑されているのかというと、決してそうではなかった。彼はむしろ尊敬されていた。仕事の上ではこの道二十年の大ベテランで、またベテランである以上に有能だった。
現場における判断の素早さと正確さは右に出るものがない。数名でチームを組むと常に司令塔は彼の役目だった。それ以外にも、もともとカメラが趣味であるため、それを扱わせるとプロの報道カメラマン並みのテクニックを披露することができる。同僚たちには到底真似のできることではなかった。
そういう意味で、仕事上ではむしろ非常に尊敬されているくらいなのだが、身なりにまったく神経を使わず、時には珍妙なスタイルで出社することもあるので、嘲笑めいたあだ名を付けられてしまう余地が生じてしまうのだった。
たとえ有能であっても、浮世離れした変人はとかくからかいの対象になってしまうのが世間というものだ。もっとも、多くの場合はそのあだ名の中に親しみが籠められており、彼に関しても例外ではなかったのである。だから同僚たちは、彼のことを親しみを籠めて“キツネ”“ネズミ”と呼ぶのだった。
彼は数日前から、昼間から夜にかけてこの雑木林に身を潜めていた。ビニールシートの上であぐらをかいている彼の周辺には、虫除けスプレーや蚊取り線香などが、おびただしい数の虫の死骸とともに散在し、この真夏の雑木林でいかに無数の虫どもと格闘してきたかがうかがえた。
彼の潜む雑木林の前には小川が流れ、静かなせせらぎを奏でている。その向こうには二階建ての住宅が一軒、こちらに背を向けて、低い生け垣に囲まれて佇んでいた。
彼の位置からは家の裏手しか見えないので玄関などは見えないが、広い庭があるため、表の門(門と言っても門柱が二本立っているだけのものだが)や駐車スペースなど敷地のかなりの部分が見渡せた。
この住宅のさらに先には小川に平行して狭い道路が走っているが、雑草に遮られて見えなかった。
雑木林から小川まで約三十メートル、小川から住宅まで二十メートルくらいの距離である。
周辺に他の住宅はない。完全に孤立した一軒家だった。かつては水田豊かな田園地帯だったのだろうが、減反政策のためか後継者不足が深刻なのか、見る影もなく荒れ果ててしまい、雑草が人の背丈よりも高く茂った荒れ地ばかりが広がっている。
座っている彼の前には、巨大なズームレンズを装着したニコンの一眼レフカメラが三脚に支えられてそびえている。彼がこの一軒家を監視しているのは、カメラのレンズがそれに向けられていることでもわかる。
ポケットの中の携帯電話が鳴った。ディスプレイを見る。同僚の鈴木だった。
「もしもし」
「あ、安西か。現在ターゲットを捕捉、追尾中。職場の菓子工場を出た後、スーパーで買い物をして、今は県道をそちらに向かってる。もうすぐ市道への分岐点。そちらまであと二、三分の距離だ」
「了解。市道には入らずに、どこかで停車して待機しててくれ。これ以上追跡すると交通量の少ない道路だから気取られるぞ。市道から先は一本道だから大丈夫だ。もしターゲットが自宅に入らないで素通りしたら知らせる。その場合は飛んできてくれ」
「わかった」
彼――安西は携帯電話をポケットにしまい、立ち上がって“ターゲット”のくるのを待ち受けた。
一匹の藪蚊が耳元をかすめ飛ぶ。しかめ面をしながら手で追い払った。
「虫だけは勘弁してくれよ」
とつぶやいた。
美奈子は県道を離れ、自宅の方向へ伸びる市道に入った。一応舗装されているのだがアスファルトの痛みが激しく、ところどころ車が大きくバウンドした。
車一台通るのがやっとの狭い道路で、しかもうねうねと曲がりくねっている。
それに加え、道の両脇には背の高い雑草がはびこっているので、先の見通しはきわめて悪い。
美奈子は車の速度を落して徐行なみにのろのろ進んだ。かまうことはない。ほとんど車の通らない道路なのだ。現にバックミラーを見ても、市道に入ってからは後方に他車の姿はない。
やがて雑草の切れ間から、道路に平行して流れる小川が見えてきた。美奈子はいつもこの小川を目にするとほっとする。自宅が近いのだ。
まもなく背後に小川を背負った、低い生け垣に囲まれた二階屋が見えてきた。
――美奈子と雄二の新居だ。
この家は貸家ではなく雄二の持ち家だ。
菱川家はこの地方では旧家としてだけでなく資産家としても知られる存在である。
しかし二十代前半にして既に一軒家の所有者になったのは、一族の中でも雄二だけである。しかも雄二がこの家を手に入れたのは、なんと高校生のときだった。
ここはもともと雄二の伯父の家であった。その伯父が亡くなった際、遺言状に相続人として雄二が指定されていたのである。――伯父は生涯独身で子どもがいなかった。
その間の事情について雄二は美奈子に語ったことがあった。
「僕はその伯父さんが大好きだったんだ。だから小さい頃はよく泊まりに行ったよ。お袋はいい顔しなかったけどね。伯父の家に行くと、小川で水遊びしたり雑木林で虫取りや木登りをしてたから、お袋は危険だと考えていたんだな」
「よくあのお母様が許したわね」
「伯父が説得してくれたんだよ。雄二をもやしっ子にするつもりか、子どもはもっと外で遊ばせないと駄目だ、ひ弱な子になってしまう、てね。伯父はお袋が頭の上がらない数少ない人間の一人だったし、伯父からそう言われると、本心は嫌でも、僕を送り出さざるを得なかったんだろうな」
「いい伯父さんだったのね」
「ああ、いい伯父さんだったよ。子どもの僕に付き合ってよく一緒に遊んでくれたしね。しかも優しいだけじゃなくて、僕が悪いことをすると本気で叱ってくれたよ、真剣にね。」
「雄二のことを自分の子どものように思ってたんじゃない?」
「多分ね。伯父は生涯独身だったからきっとそう思ってくれていたんだと思う。だから病気で亡くなる前に、僕にこの家を譲るって項目を遺言状に入れてくれたんだろうね」
伯父は菱川家の中でも財産家であったので、親族はみなそれなりに遺産の恩恵を受けた。その最大の享受者が雄二であったわけだ。
相続後、雄二は東京の大学へ進学したため、やむを得ず何年も空き家の状態が続いたのだが、美奈子との結婚が決まって新居を探す段になったとき、雄二がこの家に住みたいと言い出したのである。
美奈子は当初気が進まなかった。家自体がもう古いし、周辺に隣家がなく物騒である。しかし、亡き伯父との思い出の家に住みたいという雄二の気持ちをくみ取り、最終的には受け容れたのだった。
家賃を払う必要がないことも魅力の一つだった。
若い美奈子のために、雄二が多少の改装を施したこともあり、今では美奈子自身もこの住宅に満足していた。
のろのろ運転の美奈子の前に自宅の姿が次第に大きく見えてきた。