奪われるその1
ゆうくん
2005年01月01日
9,963
帰り支度を終えた菱川美奈子は、パートの同僚たちに挨拶をすると、職場の菓子工場を出た。
気温湿度ともに高く、粘着性すら帯びた空気が、とたんに身体全体に絡みついてきた。
「うわ、夕方でもまだ暑いなぁ‥‥」
思わず美奈子の口からつぶやき声が漏れる。
残暑の厳しい八月下旬のことである。時刻は午後六時過ぎ、そろそろ夕焼けが空を茜色に染め、地上のあらゆるものをくれないの一色に塗り上げてしまう頃だ。工場の塀沿いに植えられた立木の群れから、残り少ない夏を惜しむかのような蝉たちの鳴き声がうるさく聞こえてくる。
駐車場に停めた軽自動車に乗り込み、美奈子は帰路についた。帰宅ラッシュで車も人も錯綜する街なかを走り抜け、郊外の田園地帯にある自宅の方向へ向かう。
美奈子がすでに人妻であることは左手薬指のマリッジリングが示している。が、既婚とはいえ、年齢はまだ二十一歳。若さの持つ魅力であふれていた。
美奈子の顔は薄めのメイクしか施されていなかった。化粧で作らなくても充分に人を惹きつける容貌だった。
細く入念に手入れされた山なりの眉。人の目を引かずにはいない澄んだ瞳と二重まぶた。すっと伸びた鼻筋。左目の下、鼻筋に近いところにぽつんと小さなほくろがあり、それがアクセントとなって愛くるしさを強調している。常に微笑を湛えた小さな唇。夏だというのにほとんど日焼けしない、抜けるように白い肌。肩甲骨のあたりまで伸びたストレートの茶髪。
服装は仕事帰りにふさわしく、白地に紺のストライプの入ったブラウスに黒のストレッチパンツという活動的なものだ。
服の上からでも人並み外れてスレンダーな体型が見て取れた。細い体つきで、ウエストが大きくくびれている。おそらく胴囲は六十センチにも満たないであろう。が、かといって決して痩せぎすな体つきではなく、胸元などは双つの乳房が高々とブラウスを押し上げているし、細身のストレッチパンツが下半身に張り付き、量感豊かなヒップの形状を浮き彫りにしている。
美奈子本人はほとんど自覚していないが、清楚な服装がかえって性的な魅力を放出してしまうタイプの女性であると言えた。
そんな美奈子の身体を、一日の労働の疲労が覆っていた。
美奈子が菓子工場のパートで働き出してまだ半月あまりである。だいぶ仕事に慣れてきたとはいえ、まだまだ新人であり、肉体的な疲労のみならず精神的な気苦労も多い。
正直にいえば、全身が綿のように疲れていた。
が、美奈子の表情はなぜか満足げであった。
美奈子は交差点の赤信号で車を停める。たまたま目の前の横断歩道を仕事に疲れた中年男性が横切ってゆく。心なしか猫背になり、夕日で陰影がクッキリついたスーツの背中には哀愁が漂っていた。
――あんなふうになっちゃいけないわね。
美奈子は頭の中で考える。
――あたしは自分で望んで働き出したんだもん。雄二の反対を押し切ってまで‥‥。
美奈子はにっこり笑うと青信号で車をスタートさせた。「疲れたけどがんばらなきゃ!」
美奈子が菱川雄二と結婚し、東京からこの東北の地方都市へ移り住んだのは、わずか四ヶ月前のことである。美奈子は短大を卒業したばかり、雄二も商社に入社してまだ一年の若いカップルであった。
雄二はこの地方では有名な旧家の出であった。東京の大学に進学し、アルバイト先で短大生だった美奈子と知り合ったのである。
二人の結婚には障害が多かった。若すぎるという理由による、双方の両親の大反対。ことに雄二の母親、敏恵の反対は頑強なものがあった。
おそらくそこには嫉妬に近い感情もあったのだろう。敏恵は子どもたちの中でも殊に雄二に愛情を注いできた。それは溺愛と言ってもよかった。東京から来た気心の知れないよそ者に、掌中の玉のように慈しんできた大事な息子を奪われるというのが、どうしても我慢できなかったに違いない。若い二人の真剣な説得によって他の家族たちが次々と陥落していく中で、敏恵だけは決して首を縦には振らなかった。
「いい加減に認めておやり。あの二人は真剣なんだよ。決して浮ついた気持ちじゃない。それに――子どもはいつか巣立っていってしまうものなんだよ。雄二は今が巣立ちの時なんだ。笑って祝福しておあげ」と、雄二の父が静かに説いても敏恵はかえってくってかかるのだ。「あなたまであの女にだまされたんですか!あの女は財産目当てに決まってるじゃないですか!わたしにはわかるんです!あの女の正体が!」
目尻をつり上げてわめく敏恵の様子を見て、雄二の父も力なく首を振るしかなかった。
雄二と美奈子は説得をあきらめた。同時に結婚式を挙げるのも断念せざるを得なかった。母親欠席のまま披露宴を挙行するわけにはいかなかったのである。
美奈子と雄二は入籍だけすませ、結婚生活をスタートさせた。
しかし二人が新婚生活を過ごすことが出来たのはわずか一月だった。
雄二のロス支社への単身赴任が急遽決定したのだ。本来は別の社員が派遣される予定だったのだが、交通事故で長期入院を余儀なくされ、その代理として雄二に白羽の矢が立った。雄二は学生時代に留学経験があり、英語が堪能だった。
しかも会社側はあくまで非情だった。新婚一ヶ月の雄二に対して単身赴任せよというのだ。現地の社員用の住居は会社側が用意することになっているのだが、単身用なら安く済む。この不景気では余分な経費は出せない、というのが経営者側の考えだった。
本音を言えば無論雄二は行きたくなかった。が、入社二年目の平社員がどうして会社の命令に反抗できよう。
結局、雄二は独り機上の人となり、美奈子は独り日本に残ったのである。
雄二が単身赴任して二ヶ月以上がたった。
「ねえ、雄二、お願いがあるんだけど‥‥」
美奈子は電話で雄二に話す。
「なんだい?」
「‥‥あたしね、働きたいの。パートかなんかで」
「‥‥‥‥」
雄二がロスへ赴任して以来、専業主婦の美奈子は無為に悩むこととなった。毎日炊事掃除洗濯しかやることがないのだ。
美奈子はすっかり退屈してしまった。ここへ越してきてからまだ日も浅いので、近所に仲のいい主婦仲間もいない。短大の同級生たちは就職して働いてる。遠い街に越していった美奈子を気に留める者もいない。
時間をもてあました美奈子はパートタイムで働くことを決意した。
ロスの雄二に相談したところ――IP電話を導入しているので格安で国際電話がかけられるのだ――初めのうちは反対だった。
思えば無理もない。まだ二十歳そこそこの若妻、いや幼妻を独りで家に残してきたのだ。
職場で一緒になった男たちが美奈子に対してどんな淫らな欲望を抱かぬとも限らない。美奈子は男の誘惑に容易く乗るような女ではないが、夫が遠く海外にいると知ったら、あるいは暴力で思いを遂げようとする愚か者が現れない保証はない。
「‥‥できれば働かないで家にいて欲しいんだけどな」
「だって暇で暇で――ずっと家の中にこもってると退屈で死んじゃいそうなんだもん」
美奈子は不満げに訴えた。
「何もすることがなくってテレビばっかり見てるんだよ。パートで働くくらいいいじゃない。子供がいないうちに少しでも稼いどかなきゃ」
「でも‥‥心配だなあ」
「大丈夫よ。充分気をつけるから。雄二は結婚してから随分心配性になったわね。――あたしのこと心配してくれるのは嬉しいけど」
「うーん‥‥」
「いつもは雄二の意見にあたしが従ってるじゃない。今度はあたしの好きにさせてよ。ね、お願い」
「‥‥‥‥」
雄二はなおも渋った。
しかし――美奈子の言い分ももっともなのだ。実家から遠く離れた地方都市に移り住んでまだそう何ヶ月も経っていない。親しい友人もまだいないだろうし、また、反対を押し切る形で結婚したため、比較的近くに住む雄二の家族とも交流がない。孤独なのだ。
雄二は迷った末に美奈子の考えを受け容れることにした。ただし条件付きである。
「わかった、働いていいよ。ただしこれだけは約束して。――職場は女性が多いところを選ぶこと」
「ありがとう、雄二。絶対、女性の多いところを探すから安心して」
そこで美奈子はいろいろ求人誌やら新聞の折り込み広告やらをあさり、自宅から車で二十分のところにある菓子工場のパート従業員に決め、早速応募してみた。菓子工場なら女性が多いだろうし自宅からもそう遠くない。職歴のない自分にもできそうである。
面接に行き、すぐ採用された。
それから半月、週四日間、美奈子は菓子工場で働いているのである。
孤独から解放された今の美奈子には、疲労さえも快く感じるほど一日が充実していた。
市街地の外れにあるスーパーに立ち寄って、夕食の買い物を済ませた美奈子は、再び車に乗って自宅へ向かった。
既に夕焼けも消え去り、代わって夜の闇がたれ込め始めている。
ハンドルを握りながら鼻歌を歌う美奈子には、夜の暗がりに紛れて、つかず離れず一台の車が自分を尾行していることに気がつかなかった。そして、その車が実は数日前からずっと自分を尾行し続けていることにも。
気温湿度ともに高く、粘着性すら帯びた空気が、とたんに身体全体に絡みついてきた。
「うわ、夕方でもまだ暑いなぁ‥‥」
思わず美奈子の口からつぶやき声が漏れる。
残暑の厳しい八月下旬のことである。時刻は午後六時過ぎ、そろそろ夕焼けが空を茜色に染め、地上のあらゆるものをくれないの一色に塗り上げてしまう頃だ。工場の塀沿いに植えられた立木の群れから、残り少ない夏を惜しむかのような蝉たちの鳴き声がうるさく聞こえてくる。
駐車場に停めた軽自動車に乗り込み、美奈子は帰路についた。帰宅ラッシュで車も人も錯綜する街なかを走り抜け、郊外の田園地帯にある自宅の方向へ向かう。
美奈子がすでに人妻であることは左手薬指のマリッジリングが示している。が、既婚とはいえ、年齢はまだ二十一歳。若さの持つ魅力であふれていた。
美奈子の顔は薄めのメイクしか施されていなかった。化粧で作らなくても充分に人を惹きつける容貌だった。
細く入念に手入れされた山なりの眉。人の目を引かずにはいない澄んだ瞳と二重まぶた。すっと伸びた鼻筋。左目の下、鼻筋に近いところにぽつんと小さなほくろがあり、それがアクセントとなって愛くるしさを強調している。常に微笑を湛えた小さな唇。夏だというのにほとんど日焼けしない、抜けるように白い肌。肩甲骨のあたりまで伸びたストレートの茶髪。
服装は仕事帰りにふさわしく、白地に紺のストライプの入ったブラウスに黒のストレッチパンツという活動的なものだ。
服の上からでも人並み外れてスレンダーな体型が見て取れた。細い体つきで、ウエストが大きくくびれている。おそらく胴囲は六十センチにも満たないであろう。が、かといって決して痩せぎすな体つきではなく、胸元などは双つの乳房が高々とブラウスを押し上げているし、細身のストレッチパンツが下半身に張り付き、量感豊かなヒップの形状を浮き彫りにしている。
美奈子本人はほとんど自覚していないが、清楚な服装がかえって性的な魅力を放出してしまうタイプの女性であると言えた。
そんな美奈子の身体を、一日の労働の疲労が覆っていた。
美奈子が菓子工場のパートで働き出してまだ半月あまりである。だいぶ仕事に慣れてきたとはいえ、まだまだ新人であり、肉体的な疲労のみならず精神的な気苦労も多い。
正直にいえば、全身が綿のように疲れていた。
が、美奈子の表情はなぜか満足げであった。
美奈子は交差点の赤信号で車を停める。たまたま目の前の横断歩道を仕事に疲れた中年男性が横切ってゆく。心なしか猫背になり、夕日で陰影がクッキリついたスーツの背中には哀愁が漂っていた。
――あんなふうになっちゃいけないわね。
美奈子は頭の中で考える。
――あたしは自分で望んで働き出したんだもん。雄二の反対を押し切ってまで‥‥。
美奈子はにっこり笑うと青信号で車をスタートさせた。「疲れたけどがんばらなきゃ!」
美奈子が菱川雄二と結婚し、東京からこの東北の地方都市へ移り住んだのは、わずか四ヶ月前のことである。美奈子は短大を卒業したばかり、雄二も商社に入社してまだ一年の若いカップルであった。
雄二はこの地方では有名な旧家の出であった。東京の大学に進学し、アルバイト先で短大生だった美奈子と知り合ったのである。
二人の結婚には障害が多かった。若すぎるという理由による、双方の両親の大反対。ことに雄二の母親、敏恵の反対は頑強なものがあった。
おそらくそこには嫉妬に近い感情もあったのだろう。敏恵は子どもたちの中でも殊に雄二に愛情を注いできた。それは溺愛と言ってもよかった。東京から来た気心の知れないよそ者に、掌中の玉のように慈しんできた大事な息子を奪われるというのが、どうしても我慢できなかったに違いない。若い二人の真剣な説得によって他の家族たちが次々と陥落していく中で、敏恵だけは決して首を縦には振らなかった。
「いい加減に認めておやり。あの二人は真剣なんだよ。決して浮ついた気持ちじゃない。それに――子どもはいつか巣立っていってしまうものなんだよ。雄二は今が巣立ちの時なんだ。笑って祝福しておあげ」と、雄二の父が静かに説いても敏恵はかえってくってかかるのだ。「あなたまであの女にだまされたんですか!あの女は財産目当てに決まってるじゃないですか!わたしにはわかるんです!あの女の正体が!」
目尻をつり上げてわめく敏恵の様子を見て、雄二の父も力なく首を振るしかなかった。
雄二と美奈子は説得をあきらめた。同時に結婚式を挙げるのも断念せざるを得なかった。母親欠席のまま披露宴を挙行するわけにはいかなかったのである。
美奈子と雄二は入籍だけすませ、結婚生活をスタートさせた。
しかし二人が新婚生活を過ごすことが出来たのはわずか一月だった。
雄二のロス支社への単身赴任が急遽決定したのだ。本来は別の社員が派遣される予定だったのだが、交通事故で長期入院を余儀なくされ、その代理として雄二に白羽の矢が立った。雄二は学生時代に留学経験があり、英語が堪能だった。
しかも会社側はあくまで非情だった。新婚一ヶ月の雄二に対して単身赴任せよというのだ。現地の社員用の住居は会社側が用意することになっているのだが、単身用なら安く済む。この不景気では余分な経費は出せない、というのが経営者側の考えだった。
本音を言えば無論雄二は行きたくなかった。が、入社二年目の平社員がどうして会社の命令に反抗できよう。
結局、雄二は独り機上の人となり、美奈子は独り日本に残ったのである。
雄二が単身赴任して二ヶ月以上がたった。
「ねえ、雄二、お願いがあるんだけど‥‥」
美奈子は電話で雄二に話す。
「なんだい?」
「‥‥あたしね、働きたいの。パートかなんかで」
「‥‥‥‥」
雄二がロスへ赴任して以来、専業主婦の美奈子は無為に悩むこととなった。毎日炊事掃除洗濯しかやることがないのだ。
美奈子はすっかり退屈してしまった。ここへ越してきてからまだ日も浅いので、近所に仲のいい主婦仲間もいない。短大の同級生たちは就職して働いてる。遠い街に越していった美奈子を気に留める者もいない。
時間をもてあました美奈子はパートタイムで働くことを決意した。
ロスの雄二に相談したところ――IP電話を導入しているので格安で国際電話がかけられるのだ――初めのうちは反対だった。
思えば無理もない。まだ二十歳そこそこの若妻、いや幼妻を独りで家に残してきたのだ。
職場で一緒になった男たちが美奈子に対してどんな淫らな欲望を抱かぬとも限らない。美奈子は男の誘惑に容易く乗るような女ではないが、夫が遠く海外にいると知ったら、あるいは暴力で思いを遂げようとする愚か者が現れない保証はない。
「‥‥できれば働かないで家にいて欲しいんだけどな」
「だって暇で暇で――ずっと家の中にこもってると退屈で死んじゃいそうなんだもん」
美奈子は不満げに訴えた。
「何もすることがなくってテレビばっかり見てるんだよ。パートで働くくらいいいじゃない。子供がいないうちに少しでも稼いどかなきゃ」
「でも‥‥心配だなあ」
「大丈夫よ。充分気をつけるから。雄二は結婚してから随分心配性になったわね。――あたしのこと心配してくれるのは嬉しいけど」
「うーん‥‥」
「いつもは雄二の意見にあたしが従ってるじゃない。今度はあたしの好きにさせてよ。ね、お願い」
「‥‥‥‥」
雄二はなおも渋った。
しかし――美奈子の言い分ももっともなのだ。実家から遠く離れた地方都市に移り住んでまだそう何ヶ月も経っていない。親しい友人もまだいないだろうし、また、反対を押し切る形で結婚したため、比較的近くに住む雄二の家族とも交流がない。孤独なのだ。
雄二は迷った末に美奈子の考えを受け容れることにした。ただし条件付きである。
「わかった、働いていいよ。ただしこれだけは約束して。――職場は女性が多いところを選ぶこと」
「ありがとう、雄二。絶対、女性の多いところを探すから安心して」
そこで美奈子はいろいろ求人誌やら新聞の折り込み広告やらをあさり、自宅から車で二十分のところにある菓子工場のパート従業員に決め、早速応募してみた。菓子工場なら女性が多いだろうし自宅からもそう遠くない。職歴のない自分にもできそうである。
面接に行き、すぐ採用された。
それから半月、週四日間、美奈子は菓子工場で働いているのである。
孤独から解放された今の美奈子には、疲労さえも快く感じるほど一日が充実していた。
市街地の外れにあるスーパーに立ち寄って、夕食の買い物を済ませた美奈子は、再び車に乗って自宅へ向かった。
既に夕焼けも消え去り、代わって夜の闇がたれ込め始めている。
ハンドルを握りながら鼻歌を歌う美奈子には、夜の暗がりに紛れて、つかず離れず一台の車が自分を尾行していることに気がつかなかった。そして、その車が実は数日前からずっと自分を尾行し続けていることにも。